2007年10月03日
人類解放の大闘争へ「我が生涯に悔いなし」と
「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書970ページ)−−一生を空しく過ごして、万年にわたって悔いることがあってはならない−−。
私どもの永久の指針である。この御言葉を、私は特に、二十一世紀に生きゆく青年に贈りたい。それは諸君が指揮をとる時代である。
ロシアの有名な作家は言った。
「人間にあってもっとも貴重なもの−−それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。
あてもなくすぎた年月だったと胸をいためることのないように、いやしい、そしてくだらない過去だったという恥に身をやくことがないように、この生命を生きぬかなければならない」(『鋼鉄はいかに鍛えられたか』N・オストロフスキー著、金子幸彦訳、岩波文庫)
その通りである。“一体、何のための人生だったのか”−−そんな後悔をかみしめることほど不幸なこともない。
「死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界でもっとも美しいこと−−すなわち人類の解放のためのたたかいにささげられたと言いうるように生きなければならない」(同)
晩秋を迎えると、宮城の松島、青森なら奥入瀬の樹々が、赤や黄に美しく染まる。
荘厳な夕日が、我が身を真っ赤に燃やしながら十方に光を放つ。
そのように輝いて終えたい。私どもの人生も。
そういう死を迎えられるかどうか−−それは「人類解放のための闘争」を、やりきったか否かで決まる。
真実の「人類解放の闘争」は、広宣流布である。仏法を基調にした平和と文化と教育の推進である。国境を超えた人間主義の拡大である。
その闘争こそが「生」を光らせ、「死」をも輝かせる。
皆、命をかけた 皆、敢然と戦った
一、フランスのレジスタンス(第二次大戦における市民の対占領軍抵抗運動)−−。ナチスと勇敢に戦った無数の殉難者がいた。
キリスト教でも、他の思想でも、人類史はどれだけ多くの「信念の勇者」で飾られていることか。
皆、命をかけた。皆、敢然と戦った。
<以下、ルイ・アラゴン著、淡徳三郎編『愛と死の肖像−フランス殉難者の記録−』、1950年、青銅社刊から>
一、ナチスの連中は言ったという。
「文化ということばをきくと、俺はピストルをぶっぱなしたくなる」(同)−−彼らは「文化」、すなわち「人間」が嫌いであった。この点、「(ベートーベンの)『歓喜の歌』を歌うな」という日顕と似ている(爆笑)。
他国の文化も理解しない偏狭な指導者に率いられ、いばられ、果ては奴隷のように搾取されたあげくふみにじられる−−これほどのあわれはない。
宗門と別れたことは、大聖人の御仏意であったと確信する(大拍手)。
嫉妬=「偉大さが、しゃくにさわる」
一、「フランスの偉大さが彼ら(ナチス)の癪にさわるのだ」(同)。フランスの偉大さ−−それは文化にある。軍靴を響かせ、自由を抑圧するナチス。世界の尊敬を集めるフランス文化とは、あまりに違う。
「しゃくにさわる」栄光のフランスを、ナチスは倒したかった。
学会も文化主義である。民衆が自由に楽しく行進している。ゆえに、嫉妬の宗門は学会が一番、しゃくにさわる。同じ方程式である。
そうしたなか、ナチスと手を結び、祖国を売る売国奴がいた。青年の怒りは燃えた。−−ここに物語は始まる。
「同士を裏切るなら死んだほうがましだ」
“同志を売った”最低の人間たち
一、ナチスに抵抗する多くの青年が逮捕された。なかには、“同志に売られた”者もいた。敵に情報を与え、自分だけ、いい子になって、金を得る。どこの世界にも、そういう卑しい人間がいる。
つかまったフランスの青年たちは、残酷な拷問を受けた。牢に入れられる。なぐられる。水をかけられる。爪を剥がされる。背骨を折られた者もいる。−−生き残った者も、半死半生だった。
しかし、どんなに拷問されても、彼らは耐えた。
「同志を裏切るくらいならば、死んだほうがましだ!」
この信念、この勇気、この不敵さ−−私は尊敬する。涙をもって。
いわんや「信心」とは最高の「信念」である。にもかかわらず、牢に入るわけでもないのに退転し、同志を裏切る−−最低中の最低の人間であろう。
一、「難こそ誉れ」である。それを忘れてはならない。いつも私が矢面に立って一身に嵐を受け、皆を包容しているのである。そのことに甘えてはならない。
幹部が、学会の強さ、自由さ、大きさに甘え、学会員の人のよさを甘く見て、わがままになり、堕落したならば、大変な過ちである。皆を苦しめ、自分自身の人生も失敗である。それでは何のための信仰か。
拷問にも負けず 誘惑にも負けず
一、拷問を受ける一方で−−。
「我々に協力すれば、裕福な暮らしを約束する」と、ナチスの甘い誘いを受けた者もあった。
しかし、そんな誘惑は笑いとばされた。
何を言うか! ばかにするな!−−だれもが誇り高く、気迫に満ちていた。申し出を断れば、「銃殺」が待っていることを百も承知していながら。
「私は幸福だ!! 戦い抜いたから」
我らの死に方を見せてやろう!
一、彼らは言い放った。
「私の望みは−−真のフランス人が、どんなに立派に死んでいくか、それをナチスの首切人どもに見せてやることだ!」
切るなら切れ! 殺すなら殺せ! 喜んで死んでみせよう。首切人、裏切り者、残虐な権力者。彼らに我々の死に方が、どんなに立派であるか、みせつけてやる!−−こういう心の叫びであった。
この青年たちを見よ!!
ナチスに屈しなかった レジスタンスの英雄たち
二十七人の英雄たち
一、これはほんの数十年前の真実の歴史である。
一九四一年十月二十日、レジスタンスの逮捕者の収容所にナチスの将校の一人がやってきた。この日、別の場所でナチスの一将校が殺された。
その復讐のために、事件と何の関係もない収容者の中から、見せしめを選んで殺そうというのである。将校が来たのは、そのためであった。
この報を聞いた瞬間、だれもが死を決意した。
一、ついに、二十七人の名前が呼ばれた。なかには、まだかわいらしい十七歳の少年も入っていた。
皆、レジスタンスの闘士であった。<選別に当たってはコミュニズムへの敵視があずかっていたとされる>
だれもが皆、泰然自若としていた。
「私を代わりに連れていけ!」「私を連れていけ!」−−同志たちは、それほどまでに潔かった。
草創期の学会のような姿である。
「牢獄まで連れていってくださった」
一、私の胸に、一つの言葉がわく。
戦時中、牧口先生と戸田先生は、軍部の弾圧で投獄された。軍部は、ナチスと同盟を結んでいたファシストたちであった。
同志が次々と退転し、牧口先生を恨む声があふれた。そんななかで、戸田先生だけが最後まで裏切らなかった。
それどころか、先生は「あなた(牧口先生)の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」と語られ、師匠に感謝を捧げられた。
この至誠の叫び。崇高なる師弟。こんな言葉を、だれが言えよう。今、だれがこの決心で戦っているのか−−。
権力者よ、お前らこそ弱者だ!
一、「死刑!」−−言い渡されたとき、彼らは顔色ひとつ変えなかった。眉ひとつ動かさなかった。微笑を浮かべさえした。
卑しい首切人どもを、にらみつけてやろう! 軽蔑を示してやるのだ!
あまりにも堂々としていた。処刑者たちのほうが、どうしてよいかわからず、うろたえるほどであった。
皆、顔面蒼白になって、泣き叫び、命乞いをし、我々の前に這いつくばるはずではないのか? どうして、こいつらは、こんなにも自信に満ちているのか?
友よ、この歌を聞け! 歌え!
一、二十七人が処刑場へ連行される時が来た(十月二十二日)。
連行するトラックが到着した。別れの時−−その時である。
英雄たちのいる収容所のバラックから歌声が起こった。だれかが、革命の歌「ラ・マルセイエーズ」を歌っていた。皆が歌っていた。
歌声は広がっていく。バラックからバラックへ。友から友へ。わき上がるように、収容所全体をおおっていった。
歌いながら、同志はバラックの床板を踏み鳴らした。バン! バン! ババン!
その音で知らせた。言葉にならぬ胸のうちを。
歌はやまない。どんなにやめろと言われても、ますます大きな声となり、歌の輪は広がっていった。だれもさえぎれなかった。
−−歌は叫びである。だれに止められようか。民衆の叫び、民衆の歌声を抑えつけようとする権力者は、縛ろうとすればするほど、やがて自分がだれからも相手にされなくなり、不自由になっていくにちがいない(大拍手)。
この秋、徳島では多数の人々が「歓喜の歌」を合唱する。徳島は、日本で初めて「第九(交響曲)」が演奏された地とされる。第一次大戦で、捕虜となったドイツ兵が収容所で演奏した。
わき起こった「ラ・マルセイエーズ」。フランスの国歌であり、人を鼓舞する魂の歌である。
<このあと、名誉会長の呼びかけに応じて、会場から男女の代表が壇上に上がり、フランス語でこの歌を紹介。「文化の東北」らしいハプニングに盛大な拍手が寄せられた>
生死に境を分かつとも
一、二十七人は手錠をはめられ、トラックに乗せられた。まだ歌を歌っていた。
ガタン。車が動き出した。とうとう、たまりかねてバラックから全員が飛び出してきた。「こんなところにいられるか!」−−。
四百人が、ひとつになって歌い出した。歌い、歌い、歌いながら、トラックを見送る。
かたや「生」。かたや「死」。峻厳な分かれ道であった。
生と死に分かれても−−同志の心は、ひとつだった。
一幅の絵である。創価学会の「同志の心」も同じである。
「僕の希望までは殺せない」
「祖国万歳」
一、連行された二十七人は、「目隠しもいらない」「手を縛る必要もない」と望んで、悠々と処刑に臨んだ。
銃口も恐れない彼らは、死刑執行人たちを驚かせた。
最後の瞬間まで歌いながら、「フランス万歳!」と叫び、倒れていった。
「僕を殺しても、僕の希望まで殺すことはできないぞ!」と(大拍手)。
<レジスタンスの一英雄の遺書から。他の人も同じ確信であったにちがいない>
一、二十七人は遺書を残した。<連行の直前、紙に一枚ずつ書いた>
その遺書と証言に基づき、彼らの最期を記録した文書は、こっそりと写され、また写され、回し読まれて、またたくまにフランス中に広がった。外国でも読まれた。
これが占領下のフランス人に「勇気」を与え、ナチスを倒す抵抗運動の炎となっていったのである。
史上、有名な文書『殉難者たち』である。<ルイ・アラゴン編。当時は匿名>
「思想は永遠に死なない」
「最後の手紙」から
一、彼らに限らず、総じて、レジスタンスの殉難者の「最後の手紙」は、驚くほど平静である。達観がある。その一部−−。
「われわれの子供たちの未来のため、すべての働く人民の未来のため、進歩のため、私は誠実に働き、かつ野蛮と奴隷的圧政に抗してたたかったことを自覚しつつ、私は死んでゆく」(『愛と死の肖像』から、以下同じ)
進歩のために誠実に働いた−−私どももそうである。働いて、働き抜いている。
そして、信徒を奴隷にしようとする野蛮な圧政は断じて許さない(大拍手)。
「勝利を確認せよ、それはもうすぐまぢかに迫っているのだ」
「私は人類が幸福になることを欲した。未来をじっと正視してごらんなさい。それは燦然と光を放っています。
(中略)私は若くして、非常に若くして死んでゆきます。だが、私のうちには永久に死なむのもがあります。それは私の思想です」
“永久に死なぬもの”が胸中にある−−私どもにとって、それは仏法であり、信心である(大拍手)。
“彼らは戦った。人類解放へ「希望の鐘」を鳴らすため”
死を賭して「希望の鐘」を鳴らす!
一、「時計の針はグングン進み、死刑までわずかにあと三時間です。
(中略)私が勇敢に死に突き進みうるのは、私は死ぬのではなく永久に生きるのだということを知っているからです。
私の名前は葬式の鐘の音ではなく、希望の鐘の音としてひびきわたるでしょう」
私は死ぬのではない。永久に生きるのだ。私の死を告げる鐘は、未来への希望の鐘だ−−。
死の三時間前に、この確信。このプライド。これくらいの矜持で生きねばならない。青年ならば。
仏法では「方便現涅槃<方便として涅槃(死)を現ず>」と説く。
死して、死せず。生命は永遠である。「永遠の法」に殉じた人生は、「永遠の希望の鐘」となって響き渡る。
スローガンは勇気そして希望
一、「勇気と希望、これこそわれわれのスローガンでした。そしてこれがあなた方のスローガンともなるように」
若き日から、いつもわたしは言ってきた。「大切なのは、勇気と希望だよ」と。「皆に、勇気と希望を与えるんだ」と。
“もう一度生きても同じ殉難の道を”
何度でも戦う!
一、「私はもう一度自分自身をかえりみてみた。私の良心は平静である。私がもう一度人生をやりなおすとしても、やはり同じ途をあゆんだであろうということをみんなに伝えてほしい」
もう一度、生きても、再び「死刑への道」を行く、と。何の後悔もない。最高の誉れの人生だ、と。
何という立派な信念であろう。皆様も生きていただきたい。「もう一度、生きるならば、また同じ道を行くだろう」と誇れる人生を(大拍手)。
命を捧げよう 青年を信じて
一、「僕は、いってみれば、よい土壌を作るために木から落ちる木の葉のようなものです。土壌のよしあしは、木の葉のよしあしによります。僕はフランスの青年たちのことをいいたいと思ったのです。青年たちにこそ僕はいっさいの希望をささげています」
自分は肥やしになる。犠牲になる。青年たちよ、だから自分の分まで、立派に伸びておくれ、立派に戦っておくれ。彼らは、こういう信念に殉じて、誇り高く一生を終わった。嘆きに沈むどころか、大きな「感謝」をもって−−。
「見よ!! 私の闘争を 私の人生を」と
「理想をもたぬ人々は気の毒だ」
「おかげで私の生涯が、むだな生涯でなく終われるのだ」
「私は理想もなく死んでゆくもの、またわれわれが持っているような理想にたいするゆるぎない確信をももたずに死んでゆくものを、ただ気の毒に思うだけだ」
短くとも不朽の人生がある。長くとも空しい、“生きながら朽ちていく”人生もある。
法のため、人のために尽くしきった五十年と、人を批判するだけで自分は何もしなかった五十年と。天地雲泥であろう。
我が人生を、「何のため」に生きるか。自分で求め、自分で発見し、自分で決めなければならない。自分で「誇り」をもてるよう生きねばならない。
正義は悪を許さず、容赦せず
一、彼らは、自分たちを敵に売った裏切り者の名前を書き残した。遺された同志は、この裏切り者を、草の根を分けて捜し抜き、捜し出した。つかまえた。
絶対に許さなかった。容赦しなかった。罪科を数え上げ、満天下に公表した。断罪し、たたきのめすまで戦った。
その決心があったからこそ、あそこまで戦えたのである。ナチスを倒せたのである。「最後の勝利」をつかんだのである。なまやさしい気持ちで、極悪の権力に勝てるはずがない。
(第79回本部幹部会、第6回東北総会 1994・8・30)
2007年09月28日
ガセネタに注意
で、さっきそのホームページを見たら、フライング、とか書いてあって。
け。これって確信犯じゃん。
ダメだ、このサイトに書いてあることは今後、話半分に聞かないと。
危ない、危ない。ネット時代のリテラシーっていうのを、
ひさびさに我が身に振り返って感じた大失敗の出来事でした。
リテラシーって、もともと読み書きの能力のことをいうんだねー。
知らなかった。なるほど、ネット時代の読み書き能力か。
なるなる。。
そうだよなー。裏を取らないとなー。
オレってバカだなー。なんか悲しい気持ちになってきた。
賢くなるように、いっぱい祈ろう。(涙)
2006年10月23日
いちばん大事なのは挑戦すること
チェックインを済ませると、皆、伸一の部屋に集まった。
伸一は長イスに腰を下ろし、橋本浩治に声をかけた。
「今日はありがとう。ところで、橋本さんは、今、何歳なの?」
「二十七歳です」
「そうか。すると、まだ青年部だね……。今、セイロンには、あなた以外には一人しかメンバーはいないが、やがて、ここにも地区をつくろうと思っている。
その先駆けとして、あなたに男子部の隊長になってもらおうと思うのだが、どうかね」
当時は、男子部の地区の中心者を、「隊長」と言っていたのである。
「隊長ですか。私には、そんな厳しそうな役職は、とても、全うできそうもありません。それに、何をすればよいのかも、わかりませんから……」
「具体的に何をするのかは、青年部長の秋月君に教わればよい。また、やれるかどうかは、実際にやってみなければわからない。
青年にとって一番大事なことは挑戦です。自分では無理かもしれないと思っても、そこに挑戦していくところに成長があるし、自分の境涯を開いていくこともできる」
「しかし、私には……」
橋本は、本当に困ったような顔をした。
伸一は、無理強いするつもりはなかった。橋本のこれまでの経緯からすれば、本人によほどの決意がない限り、隊長に任命しても、その責任を果たし、組織を建設していくことは難しいにちがいない。
伸一は言った。
「ともかく、今のあなたにとって、重要なことは、広宣流布の使命を自覚することです。
どこの国にいても、どんなところへ行っても、自分に縁した人に仏法を教え、自分のいる場所を寂光土にしていこうという一念をもつことです。それがあなたの人生を荘厳し、揺るぎない幸福を築く、原動力になるんです」
橋本にとって、これが人生で初めて受ける、本格的な信心指導であった。彼はしばらく考え込んでいたが、顔を上げると、「隊長として頑張ります」と、元気な声で答えた。
橋本は、このときの伸一の指導を、忘れなかった。一年八カ月後、彼は大使の転任に伴い、一緒にノルウェーに移り住むが、そこでも現地の中心者となり、広宣流布の道を切り開いていくことになるのである。
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『新・人間革命 第3巻』月氏の章 p.90-92
2006年09月29日
戦おう、この壁をなくすために
眼前に立ち塞がる壁の高さは、わずか、三、四メートルにすぎない。取り除こうと思えば、すぐに、壊すことができよう。
だが、その壁が、自由を奪い、人間と人間を、同胞を、家族を引き裂いているのだ。
何たる人間の悪業よ! 人間は何のために生まれてきたのかと、山本伸一は、炎のような強い憤りを感じた。
−−人間がともに生き、心を分かち合うことを拒否し、罪悪とする。それは、人間に、人間であるなということだ。そんな権利など誰にもあるわけがない。
だが、壁はつくられた。まぎれもなく人間によって。東西の対立といっても、人間の心に巣くう権力の魔性がもたらしたものだ。
そして、このドイツに限らず、韓・朝鮮半島も、ベトナムも、分断の悲劇に襲われた。いや、それだけではない。ナチスによる、あのユダヤの人びとの大量殺戮も、あらゆる戦争も、核兵器も、皆、権力の魔性の産物にほかならない。
伸一の脳裏に、戸田城聖の第一の遺訓となった「原水爆禁止宣言」がまざまざと蘇った。
−−あの宣言の精神も、“人間の生命に潜む魔性の爪をもぎ取れ”ということであった。魔性に打ち勝つ力はただ一つである。それは、人間の生命に内在する仏性の力だ。
仏性とは慈悲の生命であり、破壊から創造へ、分断から融合へと向かう、平和を創造する原動力である。人間の胸中に、この仏性の太陽を昇らせ、魔性の闇を払い、人と人とを結びゆく作業が、広宣流布といってよいだろう。
車は、再び、ブランデンブルク門を望む、柵の前に出た。伸一は、もう一度、ここで車を降りた。
いつの間にか、雨はすっかり上がり、空は美しい夕焼けに染まっていた。
荘厳な夕映えであった。太陽は深紅に燃え、黄金の光が空を包んでいた。それは、緊迫の街に一時の安らぎを与え、心を和ませた。
一行が夕焼けを眺めていると、近くにいたドライバーの壮年が、笑みを浮かべて教えてくれた。
「こんな美しい夕焼けの時には、私たちはこう言うのです。『天使が空から降りて来た』と……」
辺りの塔も、ビルも、そして、閉ざされた道も、ブランデンブルク門も、金色に彩られていた。
伸一は思った。
“太陽が昇れば、雲は晴れ、すべては黄金の光に包まれる。そして、人間の心に生命の太陽が輝くならば、必ずや、世界は平和の光に包まれ、人類の頭上には、絢爛たる友情の虹がかかる……”
彼は、ブランデンブルク門を仰ぎながら、同行の友に力強い口調で言った。
「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」
伸一は、単に、未来の予測を口にしたのではない。願望を語ったのでもない。それは、やがて、必ず、平和を希求する人間の良心と英知と勇気が勝利することを、彼が強く確信していたからである。また、世界の平和の実現に、生涯を捧げ、殉じようとする、彼の決意の表明にほかならなかった。
一念は大宇宙をも包む。それが仏法の原理である。
“戦おう。この壁をなくすために。平和のために。戦いとは触発だ。人間性を呼び覚ます対話だ。そこに、わが生涯をかけよう”
伸一は、一人、ブランデンブルク門に向かい、題目を三唱した。
「南無妙法蓮華経……」
深い祈りと誓いを込めた伸一の唱題の声が、ベルリンの夕焼けの空に響いた。
母のくやし涙
ある人から聞いた。小学生のころ、貧しくて家庭訪問の日がいやだった。教師が来ても、出す座ブトンもない。母親が隣家から借りてきた。普段は見たこともないお菓子も無理して用意した。しかし教師は汚れた座ブトンに座ろうとせず、お菓子にも手をつけなかった。それでも母は、お菓子を包んで「どうぞ」と渡した。
だが教師は、外へ出ると包みを捨ててしまった。それを少年は、じっと見ていた。拾って食べようかと思ったが、母親が頑として許さなかった。「そんなもん、さわったらいかん!」。あの時の母のくやし涙が何十年たった今も忘れられない、と。
人の思い、子どもの悲しみをわからずして、どうして人間が育てられようか。
人間が機械になったかのように、心が心に通じない社会の不気味さ。問われているのは、日本社会の根底の価値観である。
2006年09月25日
君の心に、本当に響くのであれば
伸一を囲んで、和やかな語らいが弾んだ。彼は、男子部の中心者になった郷野栄治に声をかけた。繊細な感じのする青年であった。
「君は今、どんな仕事をしているの?」
「はい、トランペットを吹いて、生計を立てています」
「そうか、大変だな。それで、ポルトガル語は話せるのかい」
「日本にいた時に、二、三カ月、ポルトガル語の教室に通ったので、少しはわかります」
「それだけでは、広布の力にはならないな。しっかり勉強してマスターするんだよ。それが、君の使命を果たす突破口になっていくからね」
伸一は、日本でこの青年と何度か会い、激励したことがあった。郷野は、日本では音楽隊員として活躍する一方、男子部の班長として活動に励んできた。彼には一つの夢があった。それはジャズ奏者になることだった。しかし、当時、日本の社会では、ジャズというと眉をひそめる人も少なくなかった。このころはまだ日本では、音楽として正当な評価を得ていなかったのである。郷野には、自分が志しているジャズが、果たして広宣流布にどうつながるのかという疑問があった。
彼は、将来の進路について悩んだ末に、青年部の室長であった山本伸一に指導を求めたのである。
その時、伸一は言った。
「ジャズが君の心に、本当に響き、どうしてもやりたいというのであれば、挑戦してみることです。仮に、それが実らないことがあったとしても、自分の一念のなかに広宣流布があれば、人生の経験は、すべて生かされるものだ。仏法に無駄はない」
郷野の心は決まった。ジャズを本格的に学ぶには、本場のアメリカに渡る必要がある。しかし、彼には、渡米の費用などなかった。調べてみると、ブラジルに渡るなら、貸付制度があることがわかった。彼はまずブラジルに行き、それから、アメリカに入ろうと思った。
郷野が、船で横浜の港を発ったのは、伸一が会長に就任して約二カ月後の、七月の半ばのことであった。そして、九月上旬に、サンパウロに近いサントス港に着いたのである。
郷野は、サンパウロの東洋人街で、胸に学会のバッジをつけた一人の青年と出会った。その青年から、山本会長が、間もなくサンパウロに来ることを聞かされたのである。彼も受け入れの準備に加わった。メンバーに学会歌を教え、空港で指揮をとっていたのは、この郷野であった。
伸一は、郷野を前にして思った。
“彼の本当の使命は、このブラジルの広布にあったのであろう。問題は、いつ彼がそれを自覚するかだ……”
伸一が、ポルトガル語の習得を口にしたのも、その使命を、一日も早く自覚してほしかったからである。
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『新・人間革命』第1巻 開拓者の章 p.305-308
誓願こそ、日蓮仏法の祈り
「どうもご苦労様です。さあ、始めましょう」
伸一は、ここでは、多くの時間を質問会に当てた。農業移住者としてブラジルに渡り、柱と頼む幹部も、相談相手もなく、必死で活路を見いだそうとしている友に、適切な指導と励ましの手を差し伸べたかったのである。
「どうぞ、自由に、なんでも聞いてください。私はそのために来たんです」
彼が言うと、即座に四、五人の手があがった。皆、こうした機会を待ち望んでいたのである。質問の多くは、生き抜くための切実な問題だった。
四十過ぎの一人の壮年が、兵士のような口調で、緊張して語り始めた。
「自分の仕事は農業であります!」
「どうぞ気楽に。ここは、軍隊ではありませんから。みんな同志であり、家族なんですから、自宅でくつろいでいるような気持ちでいいんです」
笑いが弾けた。日焼けした壮年の顔にも、屈託のない笑みが浮かんだ。
この壮年の質問は、新たに始めた野菜づくりに失敗し、借金が膨らんでしまったが、どうすれば打開できるかというものだった。
伸一は聞いた。
「不作になってしまった原因はなんですか」
「気候のせいであったように思いますが……」
「同じ野菜を栽培して、成功した方はいますか」
「ええ、います。でも、たいていの人が不作です」
「肥料に問題はありませんか」
「……詳しくはわかりません」
「手入れの仕方には、問題はありませんか」
「…………」
「土壌と品種との関係はどうですか」
「さあ……」
壮年は、伸一の問いに、ほとんど満足に答えることができなかった。
“この人は自分なりに、一生懸命に働いてきたにちがいない。しかし、誰もが一生懸命なのだ。それだけで良しとしているところに、「甘さ」があることに気づいていない”
伸一は、力強く語り始めた。
「まず、同じ失敗を繰り返さないためには、なぜ、不作に終わってしまったのか、原因を徹底して究明していくことです。成功した人の話を聞き、参考にするのもよいでしょう。そして、失敗しないための十分な対策を立てることです。真剣勝負の人には、常に研究と工夫がある。それを怠れば成功はない。信心をしていれば、自分の畑だけが、自然に豊作になるなどと思ったら大間違いです。仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも“誓願”の唱題でなければならない」
「セイガンですか……」
壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
伸一が答えた。
「“誓願”というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです。祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、棚からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。日蓮仏法の祈りは、本来、“誓願”の唱題なんです。その“誓願”の根本は広宣流布です。
つまり、“私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください”という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです。
そのうえで、日々、自分のなすべき具体的な目標を明確に定めて、一つ一つの成就を祈り、挑戦していくことです。その真剣な一念から、知恵がわき、創意工夫が生まれ、そこに成功があるんです。つまり、『決意』と『祈り』、そして『努力』と『工夫』が揃ってこそ、人生の勝利があります。一攫千金を夢見て、一山当てようとしたり、うまい儲け話を期待するのは間違いです。それは、信心ではありません。それでは観念です。
仕事は生活を支える基盤です。その仕事で勝利の実証を示さなければ、信心即生活の原理を立証することはできない。どうか、安易な姿勢はいっさい排して、もう一度、新しい決意で、全魂を傾けて仕事に取り組んでください」
「はい、頑張ります」
壮年の目には、決意がみなぎっていた。
伸一は、農業移住者の置かれた厳しい立場をよく知っていた。そのなかで成功を収めるためには、何よりも自己の安易さと戦わなくてはならない。敵はわが内にある。逆境であればあるほど、人生の勝負の時と決めて、挑戦し抜いていくことである。そこに御本尊の功力が現れるのだ。ゆえに逆境はまた、仏法の力の証明のチャンスといえる。
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『新・人間革命』第1巻 開拓者の章 p.292-296
仏は遠い彼方にいるのではない
伸一たちがホテルの廊下を歩いていると、廊下の片隅に座り込んでいる数人の人たちがいた。婦人が四人に、子供が二人である。ケンタッキーからやって来た、日系人のメンバーであった。彼女たちは、地元に戻る前に、もう一度、伸一に会いたいと、彼の帰りを待っていたのである。
「どうして、廊下なんかに座っているんだろう。ロビーのソファで待っていればいいものを。人が見たら奇異に思うな」
石川幸男が舌打ちしながら、ボソボソと独り言のように言った。
伸一は、それには取り合わなかった。
「いやー、皆さん、どうしたの?」
伸一は、廊下に座って待っていた婦人たちに呼びかけた。
「先生! お会いできてよかった。どうしても、先生にご指導をお受けしてから帰ろうと思いまして……」
「そう、ご苦労様。それじゃあ、ぼくの部屋にいらっしゃい。ずっと、待っていてくれたんだね。疲れただろうね」
彼は自分の部屋に案内したが、皆は気を使い、部屋に入るのをためらっていた。
「さあ、遠慮なく、お入りください」
伸一は、丁重に彼女たちを招き入れた。皆、身なりもけっして立派とはいえなかった。しかし、伸一には、一人ひとりがアメリカを救いゆく尊き仏のように思えた。
仏は、どこか遠い彼方の国にいるのではない。娑婆世界という現実の、この社会にいるのである。仏は、悩み、苦しみ、喜び、生きる、人間の生命のなかに存在するのである。
伸一は、架空の仏ではなく、広宣流布の使命に生きる人間という仏に仕え、守ることが、会長としての自分の責務であると決めていたのだ。それが彼の信念であり、哲学であった。
語らいが始まると、子供がぐずり始めた。おなかを空かしているようだった。早速、清原かつが菓子をたくさん買って来て、子供に与えた。ケンタッキーからようやく交通費を工面してやって来たメンバーには、子供に菓子を買い与える余裕もなかったにちがいない。伸一は、清原のその心遣いがありがたかった。
2006年08月28日
信心をして生まれてきた子供に、使命のない人はいない
チャベスの移住地に行く清原かつをはじめとする五人は、アルゼンチンのブエノスアイレスから、空路、四時間あまりを費やし、ポサダスの空港に着いた。
ポサダスは、まだアルゼンチンで、ここからパラナ川を渡ると、パラグアイになる。
支部長の宮地進七をはじめ、十人ほどのパラグアイのメンバーが、ポサダスの空港まで迎えに来てくれていた。
メンバーのなかには、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを四日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長もいた。
一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。
空港からは、車で船着き場に行き、二十分ほどランチに乗って対岸に着いた。パラグアイのエンカルナシオンである。
ここで打ち合わせを行った。その時、一人の青年が清原に言った。
「お願いがあります。実は、六十キロほど先のピラポという移住地に、四十世帯ほどのメンバーがおります。その人たちは、今夜の宮地支部長宅での指導会に、トラックで来ることになっていましたが、大雨だったために、車がスリップしてしまうので、出発できないでいます。ジープなら行けると思いますので、どなたか、行ってもらえないでしょうか」
すぐに、春木征一郎の妻で副婦人部長の春木文子と、男子部の幹部が行くことになった。
午後三時ごろ、清原たちはマイクロバスでチャベスへ、春木文子らはジープでピラポへ出発した。
清原の乗ったマイクロバスは、ぬかるんだ道に車輪をとられ、何度もスリップした。途中、皆で車を押すこともあった。
チャベスの宮地支部長の家に着いたのは、夕刻であった。
辺りには、農地と森が広がり、ところどころに小屋のような家が立っていた。
清原は、ここにも同志がいて、懸命に学会活動に励んでいることに、不思議な思いがしてならなかった。
“これが御書に仰せの「地涌の義」なんだ。まさに、世界広布の時は来ているんだ”
一方、ジープでピラポ移住地に向かった春木文子たちは、ぬかるみの道をひた走った。
それでも、あまりスピードを出すことができず、到着したのは、午後九時過ぎであった。
ところが、ピラポのメンバーは、幹部が来てくれるようになったとは知らずに、危険を覚悟でチャベスの宮地の家に出発してしまったのである。
春木たちは、急いで引き返したが、チャベスに着いたのは、午前一時を回っていた。
宮地の家では、午後七時半から指導会が開かれた。会場は、百人を超す参加者でいっぱいであった。ランプの明かりに照らされての指導会である。
ここでは、メンバーから質問を受けた。
どの質問にも、苦悩と心の葛藤が滲み出ていた。
農業が軌道に乗らず、かさむ借金に苦しみながら、なんとか活路を見いだそうと、必死な人もいた。病の苦しみを、悲鳴にも似た思いで語る人もいた。
清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。
「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心を頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」
老婦人の一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子どもが生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。
家族は、針の筵(むしろ)に座るような、いたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。
もとより、近くには大病院もなく、診察してもらうこともできない。悲嘆に暮れ果てての質問であった。
皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。
彼女は断言した。
「明確なことが一つだけあります。それは、強盛に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。信心をして生まれてきた子供に、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」
この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。
清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。そして、家族も、その子どもの幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである
また、ある壮年は、懇願するように言った。
「山本先生は、パラグアイにも来てくださるだろうか……」
「祈り抜いていくなら、必ず、先生は来てくださいます。また、皆さんの思いを、すぐに先生にお伝えします。先生をお呼びすることを目標に、頑張ろうではありませんか」
質問は深夜まで続いた。その夜は、チャベス以外の移住地から来たメンバーは、宮地の家や近くの同志の家に分宿した。
翌朝、皆で勤行したあと、個人指導の時間がもたれ、次いで、教学試験が行われた。
派遣された幹部が感動したのは、大白蓮華や聖教新聞が一、二部しかないために、掲載された御書の講義などを、皆がノートに写し、研鑽していたことであった。
しかも、そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強しているのである。
派遣幹部たちは、いかなる環境条件であろうが、求道の心があれば、教学を研鑽することはできるのだとの実感を深くした。
清原たちがチャベスを後にしたのは、三月六日の午後四時過ぎであった。
木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。
“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けていただろうか。皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか……”
信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。
また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。
メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問が実現するのは、一九九三年(平成五年)のことである。
それは名画のような、永遠に輝く、感動的な出会いとなった。
この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、「国家功労大十字勲章」が贈られたのである。
新・人間革命 第11巻「開墾」の章 p.176-182
2006年08月17日
願兼於業
遠藤 先日、広島の張福順さんの体験をうかがい、大変に感動しました。張さんは、在日韓国人で、被爆された女性です。差別の苦しみ、被爆の苦しみを乗り越えて、今、平和の語り部として活躍されています。
張さんは、日本へ移住してきた両親の間に、大阪で生まれました。一家は韓国で手広く農業を営んでおられたのですが、軍国・日本に侵略され、植民地政策によって土地を奪われてしまったのです。やむなく日本へ来ざるを得ませんでした。「日本に行けば素晴らしい生活が待っている」との宣伝文句が頼りでした。しかし、危険な工事現場を転々とさせられ、行き着いた所は、山奥の小さな村。養蚕所の一角をムシロで区切っただけの小屋に入れられ、小作人の下働きとして働かされました。
しかも、割り当てられたのは、沼地のような田んぼでした。満足な収穫などあるはずがありません。僅かな配給と、草や木の実で飢えをしのいだそうです。
須田 ひどいですね。当時、たくさんの韓国・朝鮮の人々が、そうやって日本にだまされた。
遠藤 広島に移住して一年後の昭和二十年(一九四五年)八月六日、「新型爆弾によって広島が全滅した」との噂が流れます。
張さんは、お母さんと一緒に親類・同胞の安否を気遣って、被爆直後の広島市内へ行きました。その時、二次被爆をしてしまったのです。十二歳の時でした。やっと会えた叔母とその息子は、ひどい火傷で、手の施しようがありません。
叔母が「医者や薬が足らんけえ、朝鮮人までは手が回らんげな。このまま死を待つだけじゃー」と言うと、お母さんは「アイゴー(哀号)!」と悲鳴をあげました。
「アイゴー(哀号)! 国を取られ、日本まで連れてこられ、牛馬のようにこき使い、ひと思いに殺さず、何の罪あってこうやって、半殺しにして苦しめるのか! 生きるも死ぬも差別するのか!」。こぶしで地面をたたきながら慟哭する母の姿を、張さんは今も忘れることはできないと言われます。
先駆者というのは
市内をタクシーで走っている時、同乗していた川崎鋭治が、伸一に尋ねた。
「私は、ヨーロッパの連絡責任者に任命されましたが、これから、何を、どのように進めていけばよいのでしょうか」
川崎は、強い決意に燃えてはいたが、実際に何をすればよいのかがわからず、この二、三日、考え悩んでいたのである。
伸一は、しばらく黙っていた。彼は、川崎の気持ちがよくわかっていたし、また、いくらでも、アドバイスすることはできた。しかし、具体的なことには触れずに、こう語った。
「川崎さん。先駆者というのは辛いものだよ。すべて自分で考え、次々と手を打っていかなくてはならない。誰も頼りにすることはできない。しかし、だからこそやりがいもあるし、功徳も大きい……」
川崎が今後、名実ともにヨーロッパの中心者になっていくためには、彼が自ら未来の構想を描き、それに向かって、自分のなすべきことを考え、行動していくことが必要であると、伸一は思ったのである。
つまり、伸一は、リーダーとしての川崎の自発性、主体性を育みたかった。
広宣流布は、友の幸福と平和の実現を、わが使命として自覚した人が、情熱と英知で織り成す、人間の賛歌の絵巻である。
自分を深め、磨き、信心の在り方を学ぶうえでは、謙虚に指導を求め、求道の心を燃やしていくことは当然である。また、活動を進めるうえで、協議や意見の調整が重要であることはいうまでもない。しかし、広宣流布の活動の根本をなすものは、どこまでも個人の内発的な自覚である。具体的な方法は、その責任感から発する知恵をもって考え、対応していくべきであるというのが、伸一の信念であった。
川崎は釈然としない顔をしていた。それを見て取ると、伸一は言った。
「ともかく御本尊に真剣に祈り、今いる同志を激励しながら、何をすべきかは考えていけばよい。そう堅苦しく考えることはないよ。これからは、日本のメンバーも、どんどん世界に出ていくだろうから、ヨーロッパも、すぐに五十世帯や六十世帯にはなるだろう」
その言葉を聞いても、川崎には実感はわいてこなかった。
川崎が会ったヨーロッパのメンバーは、まだ、三人にすぎない。それがすぐに五十世帯以上になるとは、とうてい思えなかったのである。
ただ、自分が考えている以上に、広宣流布の伸展は早いのかもしれないと思った。また、そうするためにも、自分が立ち上がらなければならないと感じた。
新・人間革命 第5巻「歓喜」の章 p.92-94
みんなのために懸命に頑張る姿ほど
質問に答えながら、伸一は、空港に出迎えてくれたメンバーのなかで、まだホテルに到着していない友がいることが、気になって仕方なかった。
「まだ、来ない人がいるけど、どうしたんだろう」
彼は話しながら、何度か、こう繰り返した。
質問が出尽くしたころ、バタンと大きな音がして、部屋のドアが開いた。皆が一斉に振り向いた。そこには、裸足で、片手にハイヒールを持ち、もう一方の手に重そうな大型のテープレコーダーを持った、やや大柄な日系婦人が立っていた。彼女は、テープレコーダーを床に置くと、喘ぐように肩で大きく息をした。顔中に汗が噴き出していた。
「どうしたんですか」
伸一が尋ねると、婦人は、荒く息をしながら答えた。
「すいません。空港からここに来る途中、皆さんの車を見失い、道に迷ってしまったもので……」
「そうですか。ご苦労でしたね。心配していたんですよ」
伸一は、婦人に笑顔を向けた。
彼女の名前は、タエコ・グッドマンといった。前日、モンタナ州を車で出発して、雪のロッキー山脈を越え、早朝、ようやく空港に着いて一行を出迎えたのである。
しかし、ホテルに向かう途中、一行の車を見失ってしまった。シアトルの地理がわからない彼女は、ホテルを探すのに、かなり時間を費やしてしまったのだ。苦心の末に、やっとホテルを見つけたが、ホテルから、かなり離れた駐車場に車を止めてしまった。そこから大型のテープレコーダーを持って歩いた。このテープレコーダーは、モンタナで自分が信心をさせた人たちに、山本会長の指導を聞かせたくて購入したばかりのものだった。
大型のテープレコーダーは、女性の手には途方もなく重たかった。数メートルも歩くと腕が痛くなった。しかも、履いていたのは買ってばかりのハイヒールであった。これが足に合わず、歩くとすぐに靴擦れができた。テープレコーダーの重さと靴擦れの痛みに音をあげ、彼女は何度も立ち止まった。
時は刻々と過ぎていく。山本会長は、既にどこかに出発してしまったのではないか――そう思うと気ばかりが急くが、歩みは遅々として進まなかった。そのうちに涙が込み上げてきた。ホテルのロビーに着いた時にはハイヒールを脱いで裸足になっていた。靴擦れのできた足で、重い機械を運んで歩く苦痛は、恥も外聞も忘れるほど大きかったのである。
伸一は、婦人の持ってきたテープレコーダーを見て言った。
「ありがとう。嬉しいね。同志のことを考えてくれて。みんなのために懸命に頑張る姿ほど、尊いものはありません」
その言葉は、タエコ・グッドマンの胸を射た。彼女はハッとして、伸一の顔を見た。
「先生……」
何か言いかけたが、言葉にならなかった。しかし、彼女は、自分の心にわだかまっていた悶々とした思いが、霧が消えるように、にわかに晴れていくのを感じた。
タエコ・グッドマンが入会に踏み切った動機は、三年前に日本で母親がガンにかかり、医師から「六カ月の命」と宣告されたことであった。その苦悩のなかで、仏法の話を聞き、紹介者の指導通りに一心に信心に励んだ。そして、二カ月たって再検査を受けると、母親のガンの症状はすっかり消えていたのである。
その後、彼女は、職場で知り合ったアメリカ人と結婚し、渡米する。しかし、見知らぬ土地での生活は、日々、郷愁をつのらせた。彼女は、日本に帰れることを願って、真剣に信心に励んだ。入会するメンバーは二人、三人と増え、遂に十人を超えた。すると、彼女の心は揺らぎ始めたのである。
“もし、自分が帰国してしまったら、後に残されたメンバーの面倒は、いったい誰がみるのだろうか……”
日本に帰りたい一心で信心に励み、弘教に力を注いだことが、かえって、帰国をためらわせる結果となったのである。彼女の心は激しく揺れ動いた。それは、使命の目覚めといってよかった。
そんなさなかに、山本会長一行の訪米を知り、彼女はぜひ会長に会いたいと、一晩がかりで車を走らせて来たのだ。彼女は、「みんなのために懸命に頑張る姿ほど、尊いものはありません」という伸一の言葉を耳にした瞬間、感激とともに決意が込み上げた。
“私は、このアメリカの地で頑張ろう。私を信頼して、信心を始めた同志のために……”
人間性の光彩とは、利他の行動の輝きにある。人間は、友のため、人びとのために生きようとすることによって、初めて人間たりうるといっても過言ではない。そして、そこに、小さなエゴの殻を破り、自身の境涯を大きく広げ、磨き高めてゆく道がある。
伸一は、モンタナの地から、法を求めてやって来た婦人の、一途な求道の姿が嬉しかった。広いアメリカのここかしこに、広布の使命に生きる地涌の友が、涌出しつつあることを感じた。まさに、世界広布の時は来ていたのである。
(『新・人間革命』第1巻 錦秋の章、p.146-150)
世界広布へ続け
須田 釈尊が悟りを開いたとされるブッダガヤには、私も訪れました。経文に「伽耶城を去ること遠からず」とありますが、現在のガヤー市街(インド東部のビハール州)から南方へ十キロメートルほどの所です。
ガヤーの町の近郊で釈尊が成道したことから、後に、ここはブッダ(仏陀)のガヤー、ブッダガヤと呼ばれるようになりました。
遠藤 菩提樹という木の名前も、釈尊の成道にちなんでつけられたものです。
(中略)
名誉会長 私も行きました。会長になってすぐ、この「仏教発祥の地」に行った<就任の翌年の昭和36年=1961年>。そして、大聖人の仏法の「仏法西還」を誓いつつ、「三大秘宝抄」の写本や記念の石碑を埋納しました。
斉藤 今、その誓い通り、インドはもちろん、アジアへ、世界へ、「太陽の仏法」は広まりました。釈尊の仏法がアジアに広まるのに、何百年、千年とかかっていることを考えると、後世の歴史家は“奇跡”と驚くでしょう。
名誉会長 諸君も続いてほしい。続くべきです。ともあれ釈尊は、「人類を救う闘争」を、この地から開始した。ブッダガヤで悟りを開いた釈尊の精神闘争とは、どんなものだったのだろうか。(以下略)
(『法華経の智慧』第四巻 p.116-117)
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諸君も続いてほしい。続くべきです。
との先生の魂の叫びが、胸に迫ってきます。日常のいろんなことに流されそうになると、このご指導を、いつも思い出します。